承前
洞門の脇を通っていた切り通しを見て、地下に埋まっていた洞門を通り、青に出た。僕が高校生の時に来た時とはずいぶん変わっていて、青から川向こうに渡る禅海橋ができていた。上流にある沈下橋「犬走り」まで歩き、今晩泊まる山國屋旅館にあいさつ、車で道の駅耶馬トピアまで行って昼食。
その後、すぐそばにある耶馬溪風物館を見る。ここにも青の洞門と禅海の展示がある。ここに、青の洞門にあった石造地蔵菩薩が安置されていた。この地蔵の台座に禅海や洞門の記録が書かれた板書があった。禅海直筆で、これが唯一残っている信頼できる資料という。
ここは写真撮影禁止なので、代わりに青の洞門にあった地蔵の石穴を示す。
羅漢寺に参拝する
ここから車で羅漢寺参詣道をたどる。ライトバンがようやく通れる、細い道だった。出発前の相談で、手話通訳者が二人になる事を伝えたら、車が二台になるとの返事だったので不思議に思っていたのだが、初めからここを案内するつもりだったのだ。 もう一人の手話通訳者は、この後羅漢寺で合流することになった。そのため、車は一台ですんだ。
一般的な羅漢寺への入口よりもずっと手前、地形図で「門前」とある所で車を降りる。ここから羅漢寺旧参道を歩く。
室町時代のものでかなり古く、歴史を感じさせる石畳道だ。
この道の両側に空地が目立つ。
昔はここに家が建ち並んでいたのだそうだ。羅漢寺に参拝する人達がここに泊まっていたという。門前市をなす、栄えた場所だったのだ。江戸時代では知られた名所だった。羅漢寺参拝道は、大勢の参拝者が行き交う道だった。
この道の突き当たりに、知剛寺がある。
ここに禅海の墓があった。これは生前に功徳を積むために作られた逆修墓で、実際に葬られたのは第二の墓所、知剛寺から登った山の斜面という。さらに戦後になって、禅海を供養する禅海堂が作られている。禅海堂は、今の参詣道の入口近くにある。
もう一人の手話通訳者と合流し、羅漢寺に向かう。観光リフトはあるのだが、往事の羅漢寺をより良く知るためだろう、石畳の山道を案内された。
途中の岩壁に四角い穴がたくさんあけられており、これが墓地だという。
無漏窟に五百羅漢像がぎっしり詰まっていた。国指定重要文化財だ。ここから山門をへて本堂がある。いずれも、山の中腹の洞窟の中に建てられている。
帰りは、老いの坂を通った。秩父宮殿下もここを通ったそうで、さすがに登山をたしなまれる殿下の通りそうな、スリルのある険しい山道だった。三廻りの塔など見るものはあったが、一般の人にはお勧めしない。もっとも入口はわかりにくいので、間違って入り込む心配はないと思う。
羅漢寺は、日本中の羅漢寺の総本山という。山岳宗教の色濃い寺だということがよくわかった。
青の洞門を作った理由として、胎内くぐりの考え方があったのではないかとガイドに聞いてみたら、羅漢寺そのものもそうだと言う。無漏窟も本堂も、穴の中に作られており胎内くぐりを具現化していると。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
- 胎内くぐり
- 現世から狭いところを通り抜け、別の世界に生まれ変わることを表す呪術的行為。子供から大人へ、俗から聖へ脱皮累進していくイニシエーション儀礼(入社式)の一つ。修験道の入峰修行のなかには、行場の狭い洞穴をくぐり抜けることがあり、仏教と結び付いた場合は、大仏などの胎内をくぐることによって、仏の恩愛を多く得ようとする。胎内くぐりの名称もこれに基づく。愛知県設楽地方の花祭りに、シラ山のなかをくぐる行為を胎内くぐりとよんでおり、火山の周辺にある風穴の所々に神社を祀っているのも、また旧暦6月末の夏越(なごし)の祓(はらえ)に茅の輪をくぐり、身の罪穢れを祓い落とす行事も、すべて一連の行為である。
[井之口章次]
青の洞門もまた、胎内くぐりを体験する装置の一つとして作られたものだと考えられる。俗世間から洞門をくぐり抜けて、羅漢寺という聖域に入っていく。正しく、穴の向こうの浄土世界である。
難所を迂回する回り道
さてここで、回り道の問題を検討する。現地を案内してもらって、本当に競秀峰の絶壁を迂回する回り道がいくつもある事を確認できた。実際にあったコースを紹介する。
競秀峰を越える道
予想していた通りの山道があった。僕には「あって当たり前のものがあった」という感じだが。この道は競秀峰の裏側を通っているので、山国川の対岸からは見えない。
青の洞門の入口近くにあった案内図と、山道の入口を示す。整備されてはいるが、この道自体は以前からあったもので、途中の岩窟に妙見堂がある。
競秀峰登山会・中津耶馬溪観光協会本耶馬渓支部作成の「競秀峰」パンフレットに載っていた地図を示す。「ここが帯岩ですね」は僕が追記したもの。(クリックすると拡大できます)
国土地理院地形図にも載っている帯岩がこれ。帯のように横切る道がついているのだ。写真を拡大して見ると、一部にロープが張ってあるのがわかる。これを、昔の鎖戸渡しだと説明された文章を見たことがあるが、誤り。本当は、修験道の行場なのだ。帯岩の道をきちんと説明した資料・ウェブサイトがないので、現地のガイドに確認が取れたのは収穫だった。もちろん、荒瀬井堰で参詣道が水没して通行困難になった件とも無関係。パンフレットの地図を見ても、競秀峰には他にも修験道と関わりのあるものが見られる。
追記
山国川からでは険しく見えるけど、裏側はそう険しくない事がわかる写真を見つけた。
大分県中津市しもげ商工会の「競秀峰の景」
ドローンを使った空撮写真で、2017年(今年)の1月に撮ったかなり新しい写真だ。
鎖戸渡し
青の洞門が作られる前の鎖戸渡しだが、その跡が今も確認できる。左側からいきなり高い所を巻いているのがわかる。そこから徐々に崖を降りていく。クリックして拡大した写真を見れば、崖に見える地層に並行して凹みがつけられてるのがわかると思う。
マンガ「恩讐の彼方に」での描写を見ると、洞門入口の右側から鎖戸渡しに入るように描かれている。多くの人はこう思っているのだろうが、実際は違う。
「恩讐の彼方に」(文芸まんがシリーズ)
原作:菊池寛 作画:司敬 監修:小田切進 出版:ぎょうせい
本当は洞門入口の上を巻いて行っているのだ。だから、いきなり崖の高い所から鎖戸渡しに入れるわけだ。競秀峰を越える道と入口が同じで、途中で道が分岐する。山越えの道があることを承知の上で、新たに作られた桟道だということになる。競秀峰を越える山道と崖を巻く鎖戸渡しは、一組のものとして考えるべきだろう。
渡し船
荒瀬井堰で湛水した。そこを渡し船で対岸に渡っていた。ガイドからの話では、青の洞門の対岸には船場という名前の家が今もあるそうだ。
船の輸送能力は、牛馬よりもはるかに大きい。急流とされる山国川だが、この部分はダム湖のように流れがゆるやかとなる。おそらく大半の人、そして物資はこの渡し船で運送していたと考えられる。
犬走り
さらに上流、跡田川と合流する所に犬走りという沈下橋がある。ここまで来ると、川は普通の流れになっている。山国川のさらに上流にある柿坂・山国や日田から来た人達は、ここを渡って羅漢寺に詣でていたのだろう。
犬走りでは車馬は通れない、と書いている本がある。しかしこのあたりは浅瀬になっているので、普通に牛馬を引いて川の中を渡れば良い話だろう。昔はそれが普通だった。
回峰行の道
ガイドから聞いた話では、昔の羅漢寺では回峰行があったそうだ。その道が寺から競秀峰まで山の中を通っていたと言う。この情報も、類書には書かれていない話だった。回峰行は、比叡山延暦寺でおこなわれている修験道の修行が有名。修験道と関わりの深い寺という、羅漢寺の性格がうかがわれる話である。
羅漢寺への峠道
ガイドからの説明では、昔は羅漢寺へ参詣する八つの峠道があったそうだ。日田往還を利用しない、周辺の人々がこの道で参詣していた。もちろん、流通道としても使われた。
そりゃ当然あるだろうと思っていたので、この峠道の具体的なコースは聞き漏らしてしまった。この図説があった方が説得力が出たと思う。
難所を素通りした貝原益軒
- 貝原益軒
- 1630~1714年 85歳
江戸時代の本草学者、儒学者、福岡藩士。健康法を解説した「養生訓」の著者として知られる。藩内での朱子学の講義、朝鮮通信使への対応をまかされる等、さまざまな重職をつとめた。
「豊国紀行」に貝原益軒が羅漢寺に行った時の記録がある。1694年5月に通行しているので、荒瀬井路ができた後、禅海が青の洞門に着工する前だ。
「樋田は佐知より先、羅漢の方にあり。高瀬より羅漢へ行く道の町なり。高瀬より二里半向の山を廻れる所にあり。その所を荒瀬という。其下に岩山の内を切り通し、一丁二丁或は三丁、又は十間廿間ばかり、岩の内を水の通る所あり、所々によこ穴あり、是は掘る人の呼吸を通さん為なり、奇世のしわざ天工の自然になるがごとし。」
「樋田のさき一里許、羅漢寺より五丁許左の方、川に近き所、大岩の数十そばだてる所有。その高十数間、或は八九間有。他郡にてはいまだ見ざる所なり。向にも又あやしき岩あり。」
(「一里」は「一丁」の誤りではないかとされる)
貝原益軒は福岡藩の行政にも関わる立場から荒瀬井路に興味があったのだろう、記述は競秀峰よりも詳しい。競秀峰の描写は、対岸の曽木あたりから見た形になっている。鎖戸渡しや難渋したといった記述はない。この当時はまだなかったか、それほど重要視されてなかったのだろう。少なくとも、通らなければならない難所という認識はなかった。普通に羅漢寺に行っていたようだ。おそらく渡し船か、犬走りで渡って行ったのだろう。当時の交通路では普通に渡し船があったので、いちいち記述しなかったようだ。
考察
結局、競秀峰の絶壁で交通に難渋していたという証拠は、出てこなかった。実際に回り道があり、普通に使われていた。一方で鎖戸渡しは実際に作られていた。交通困難だから鎖戸渡しが作られた、とする説明は事実とは合わないようだ。
現地調査する前は、青の村へ行くために作られた道が鎖戸渡しである可能性も考えていた。しかし現地調査の結果、競秀峰越えの山道・渡し船・犬走りの存在を確認できた今では、この考えは捨てざるを得ない。
競秀峰の山道は大変だからより楽な道として鎖戸渡しを作った、という考え方は取らない。
現地を見てわかった事だが、鎖戸渡しは断じて楽な道ではない。いきなり絶壁の上側に取り付いているのだ。これだと、競秀峰の山道よりもはるかに緊張を強いられる。この緊張に比べれば、たった標高差 100m の山越えの方がはるかに楽なのだ。険しい個所をうまく避けた作道になっているし、所要時間も一時間半。重い荷物を担いで運送するのを生業とする人なら、十中十まで、安全で道のしっかりした山道を選ぶ。
競秀峰の山道も、修験道の色が強いことはすでに指摘した。樋田からの入口では鎖戸渡しと同じであり、途中で分岐している。ということは鎖戸渡しは、初めから行場道として作られたものではないかと思う。
こういう行場道は、決して珍しいものではない。修験道の行場として有名な山なら、たいていある。あえて険しいところに道を通しているのだ。実はこの鎖戸渡しと似た性格を持つ道が、競秀峰の山道にもある。帯岩の道だ。行場道として似た道だから、ここを昔の鎖戸渡しの跡と誤解されたのだろう。
鎖戸渡しに続いて、初めから羅漢寺に行く参詣道として作られたのが、青の洞門だ。競秀峰の絶壁を避ける回り道はすでにあるので、羅漢寺に行ける安全な近道として新たに作られたものだ。第一は参詣する信者のために、引いてはお世話になっている羅漢寺に貢献するために作られた。 もちろん、周辺の村人の流通にも役に立つことは当初から意識していただろうし、托鉢して援助を乞う際にもそう説得していただろう。その一方で、胎内くぐりの思想もあった。信者を羅漢寺という極楽浄土の世界へと導く結界として、青の洞門が働く。鎖戸渡しも結界としての性格を持つもので、青の洞門が引き継いだ。
禅海は、青の洞門の掘削を自分に課せられた行と考えていたのだろう。托鉢行をおこなって金が貯まれば、人を雇って掘り進めた。金が無くなればまた托鉢に回る。そのくり返しを延々とおこない、けっして焦ることがなかった。難渋している人などいなかったのだから、工事を急がなかった。それで 30年もかかったのだろう。
以上で、青の洞門についての僕の謎解きは終わる。 あと一回ぐらい書き漏らしたことを書くつもりだが、僕の持っていた疑問の話についてはここで完了となる。
ご覧の通り、従来の青の洞門の見方とは大幅に違うものになっている。禅海の業績に対するとらえ方も変わってくると思うが、自分としては禅海を軽視するつもりは全くない。羅漢寺、そして参詣する信者のために貢献したのは間違いない事実だから。小説のような劇的なものではなかったというだけの話で、よくある事だ。
代わりに浮かんで来る禅海の像は、神がかった超人的なものではなく、もっと人間らしいものになると思う。
続き 青の洞門 その四 拾遺
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